Sunday, November 6, 2011

II.A.9.隠蔽体質は原発導入期から

政府が1955年、原発を導入するために初めて派遣した海外調査団の報告書が、原子力委員会の設置を推進する内容に偽装されていたことがわかった。作成に関与した旧通商産業省の初代原子力課長(故人)の偽装を認める証言が、文部科学省の内部文書に記録されていた。

(1)(asahi.com)原子力委の設置、裏に偽装報告 55年 初の海外調査団 (2011年7月17日3時1分) http://www.asahi.com/politics/update/0717/TKY201107160721.html (2011年10月28日閲覧)

(全文を転載)

図:原発導入初期の流れ拡大原発導入初期の流れ

政府が1955年、原発を導入するために初めて派遣した海外調査団の報告書が、原子力委員会の設置を推進する内容に偽装されていたことがわかった。作成に関与した旧通商産業省の初代原子力課長(故人)の偽装を認める証言が、文部科学省の内部文書に記録されていた。

文書は85~94年、日本の原子力行政の重鎮で、原子力局長や原子力委員を務めた故・島村武久氏が、原子力政策にかかわった政治家や官僚、学者など33 人を講師として招いた「島村研究会」の録音記録。A4判620ページにわたって文書化され、文科省が製本したものを朝日新聞が入手した。

政府は54年12月、初めての原子力予算で、物理学者を団長とする15人の「原子力平和的利用海外調査団」を派遣。4班に分かれて米英仏やインド、スウェーデン、デンマークなど14カ国を巡り、原子力行政の組織体制を調べた。

調査団は帰国後、原子力を推進・開発する政府の機関について「各国の統括機関はほとんどすべて委員会の形をとり多頭。各方面の意見を十分に入れるためと思われる」と報告書に明記して、集団指導体制による委員会の設置を日本でも急ぐよう提言した。

事務局として作成にかかわった旧通産省工業技術院原子力課の初代課長の故・堀純郎氏は88年、「島村研究会」に招かれ、「(トップに)委員会をつくって いるのは米国だけで、ほかにはどこもない」と指摘。フランスは「役所」、イギリスは「公社」だったにもかかわらず、「(諸外国は)どこでも委員会だ。だか ら日本でも委員会を作らなくちゃいかんと強調した」と偽装を証言した。

さらに「若い事務官がこんなうそ書けるかと憤慨した」とも証言し、のちに資源エネルギー庁次長となる豊永恵哉氏が偽装に抵抗したことを明らかにした。

豊永氏は朝日新聞の取材に「委員会は米国にしかなく、責任があいまいになり、日本になじまないと思った。むしろしっかりした行政組織を作るべきだと上司に進言した」と話す。

政府は報告書をもとに原子力委員会を56年に発足させ、初代委員長に正力松太郎国務相、委員にノーベル物理学賞の湯川秀樹氏、経団連会長の石川一郎氏ら を起用。著名人を集めた委員会を設け、米国の水爆実験で「第五福竜丸」が被曝(ひばく)した事件による原子力への世論の逆風を弱める狙いがあったとみられ る。政府が公表した報告書の偽装は、原発導入期からの隠蔽(いんぺい)体質を示すものだ。(山岸一生)



『朝日新聞』7月18日朝刊。-この年表は、社会科学者の時評さまのブログから転載させていただきました。 http://pub.ne.jp/bbgmgt/?entry_id=3788145(2011年11月6日閲覧)
 
(2)『朝日新聞』朝刊に掲載された(2011年7月17日-20日)連載「原発と国家」が、社会科学者の時評さまのブログに転載されています。
http://pub.ne.jp/bbgmgt/?entry_id=3788145(2011年11月6日閲覧)

(3)〔フクシマ・NEWS〕 赤旗日曜版(23日号)に「島村研究会記録を読む」 事故起きればアメリカに電話  安全性研究は「やめてくれ」 「草の根運動は非常に危ない」

→ http://www.jcp.or.jp/akahata/week/

◎ 原発推進者のホンネ 島村研究会記録を読む
米原発依存で 対応能力なし 事故起きればアメリカに電話
安全性研究は「やめてくれ」 「草の根運動は非常に危ない」
福島原子力発電所の事故でいま厳しく問われているのが、「安全神話」を土台にしたこれまでの原発政策です。編集部は、日本の原発に携わってきた政財官学の中枢メンバーが“本音”を語った非公開研究会の会議録を入手しました。そこから見えてきた原発の“闇”をえぐると―。

記事の写真 → http://yfrog.com/kljfqmpj

以上の記事は、机の上の空 大沼安史の個人新聞様より転載させていただきました。
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2011年12月11日投稿

英国立公文書館で見つかった資料によると、日本初の商業用原発を英国から輸入するかどうかを検討する政府の調査団が1956年に訪英した際、地震のない英国製の原子炉の耐震性の弱さに日英ともに不安を持ち、さらには、「地震で炉心損傷なら、人が安全に中に入って復旧を始めるには、四年以上かかるだろう」という指摘が英国側からされていた。調査団の報告書では、英側から「十分の回答は得られなかった」と認めながらも、設計の修正で解決できるとして 「英国の原子力発電設備の導入から進めるのが良い」と結論づけ、初の商業用原発となる東海原発(茨城県東海村)に英国型を採用するレールが敷かれた。

原発導入の当初からすでに、起こりうる問題を徹底的に検討することなく、むしろ過小評価し、安全対策を軽視する傾向があったことがわかる。 その体質は、現に破局的な事故が進行中の今も、事故を小さく見せることに汲々とし、「楽観的」な見通しの手直しを繰り返すことによって、事故収束に失敗し、被害を拡大し続けている東電と政府の対応に脈々と受け継がれている。

(東京新聞)「地震で炉心損傷なら、復旧着手に4年」 英の指摘、触れず導入(2011年12月9日 朝刊) http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2011120902000018.html (2011年12月11日閲覧)(全文転載)

日本初の商業用原発を英国から輸入するかどうかを検討する政府の調査団が一九五六年に訪英した際、英側が「地震で炉心が崩れたら復旧作業の開始に四年以上かかる」と指摘していたことが、英国側資料で明らかになった。英国型の原発は地震に弱いと言われてきた。指摘は、加えて地震で崩れたら復旧も難し いことを示唆していたが、調査団は報告書でそれに触れずに「導入するに適する」と結論づけていた。 

資料は、愛知県豊田市の科学史研究家奥田謙造さん(55)が英国立公文書館で見つけた。五六年十一月十六日にロンドンで開かれた日本の調査団(団長・石川一郎原子力委員長代理)と英国原子力公社側との会合の様子が記されている。

それによると、日本側調査団は導入を検討する英国コールダーホール原発型の原子炉が、減速材に使う黒鉛を積み重ねただけの構造になっていることに懸念を表明。同年十月末からの視察中、何度も英側と耐震問題の解決を求め議論した。

十一月十六日にも日本側から、地震が原子炉へ及ぼす影響について尋ねたが、英側は「今の構造では地震の影響を受けるが、英国は地震がないのでどう すべきか言えない」と釈明。「日本のためには構造のどこが傷つきやすいかをアドバイスすることが一番だ」として、「もし黒鉛が崩れて炉の操作が妨げられた 場合、人が安全に中に入って積み直しを始めるには、四年以上かかるだろう」と話した。

結局、耐震問題に不安を抱えたまま調査団は帰国。報告書では、英側から「十分の回答は得られなかった」としたが、設計の修正で解決できるとして 「英国の原子力発電設備の導入から進めるのが良い」と結論づけ、初の商業用原発となる東海原発(茨城県東海村)に英国型を採用するレールが敷かれた。

同年八月八日付の英原子力公社の内部文書では、英国の原発メーカーが「日本では地震が頻繁に起こるので、原子炉の設計がとてつもなく難しくなる」と指摘したとの記載もあり、耐震問題は、日本側が指摘する前から英側も把握していた。

当時日本原子力研究所の研究者で、調査団の通訳担当だった原礼之助さん(86)は「『復旧に四年以上かかる』という説明は記憶にない。ただ、石川団長には『購入するつもりだから、その前提で通訳してほしい』と言われた」と証言した。

<コールダーホール原発と東海原発> 英コールダーホール原発は西側諸国初の商業用原発で、1956年10月に運転開始した。核分裂反応を効率的に 行うための減速材として、水の代わりに黒鉛を使う構造。原爆用プルトニウムの生産を兼ねていた。2003年に閉鎖。日本初の商業用原発となった東海原発 は、コールダーホール原発の改良型。66~98年まで営業運転し、現在は廃炉作業中。燃料に天然ウラン、減速材に黒鉛を使うガス冷却炉。積み上げた黒鉛が地震で崩れる恐れが問題となり、黒鉛のブロックを凹凸に加工してかみ合わせるよう設計変更した。
(転載終わり)
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 2012年6月3日投稿

 (ウオール・ストリート・ジャーナル日本版)日本の原子力発電とCIAの関係 (2012/6/1 18:17) http://jp.wsj.com/japanrealtime/blog/archives/11650/ (2012年6月3日閲覧)(全文転載)

福島第1原発の事故から15カ月――。日本と原子力発電の関係は劇的に変化した。
Bloomberg News
かつては世界第3位の原発依存国だった日本は、50基の原子力発電所が全て停止した状況にあり、今夏の電力不足が懸念されている。原発の再稼働―― 政府は経済を下支えするために必要なステップだとしている――については、国民が原発の安全性に対して疑問を呈するなか、政府は政治的に難しい判断を迫ら れることになる。

約60年前の日本政府も同じような問題を抱えていた。第2次世界大戦で米国が広島と長崎に原子爆弾を投下したわずか9年後だというのに、原発の保有国になるという野望の支持を得るために、どう国民を説得すればよいのか、という問題だ。

早稲田大学の有馬哲夫教授によると、この野望は通常では考えにくい機関からの支援を得て達成されたという。米中央情報局(CIA)だ。

有馬教授はJapan Real Time(JRT)に対し、米国立公文書館で公開されたCIAのファイルに、正力松太郎という1人の日本人がいかに誕生間もない原子力産業の振興に関わっていたかを示す資料を見つけたと述べた。

正力氏は多くの顔を持つ。A級戦犯。読売新聞社主。日本初の民間放送局(日本テレビ)と巨人軍を創設した人物でもある。有馬教授によると、あまり知られていないことは、原発推進のためCIAと一緒に動いたメディアの大物だということだ。

1954年、米国がビキニ環礁で行った水爆実験で日本の漁師らが被ばくしたことを受け、日本では反米・反原発の抗議運動が広まっていた。

有馬氏が発見した資料によると、正力氏はCIAの後ろ盾を得て、自身の影響力を使い読売新聞に記事を掲載し、原発の利点を称えた。有馬氏によれば、 日本の再軍備に熱心だった正力氏は、原発がやがては独自に核兵器を開発する能力を日本にもたらすことを期待し、原発を推進したという。正力氏の水面下の動 きは他のメディアへの連鎖反応を起こし、ついには世論を変えることになった。

「正力は一人でやったわけではない。ただ正力は政治と経済界と、それからアメリカを結ぶ力を持っていた。駆け引きがうまかった」と有馬氏は話す。有馬氏は自身の発見について2冊の本を書いている。

日本初の商業用原子炉は1966年に稼働した。終戦から21年後のことだ。正力氏は69年まで生きたが、有馬氏によると、CIAとの関係は50年代後半には終わっていたようだ。

しかし、駆け引きのうまい正力氏と彼の後ろ盾となったCIA関係者だけが日本の原発依存態勢を作り上げたわけではない。有馬氏は他の要素も原子力産 業が形成されていく上で一定の役割を果たしたと強調する。他の要素とは、今日に至るも原発の議論を巡り影響力を発揮しているものだ。「日本が原発を求めた のだ。日本が豊かな国になり、発展できるように政府が原発を選んだ。石油が不足し、原発は経済的観点から見ると必要だった」
英語原文はこちら≫

(転載終わり)

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